地元を楽しむ姿を見せることで、次世代に受け継ぎたいもの。

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「地元」。生まれ育った場所を早く離れたいと思う人もいれば、いつかは戻りたいと思う人もいるでしょう。ひとつ言えるのは、「地元」に対して特別な思いを持っている人が多いこと。

米農家になるために湖西エリアに戻ってきた森哲郎(もり あきお)さんも、地元である北比良に対する思いが移り変わってきたといいます。一度は外に出て、外から地元の良さを見つめた森さんが考えたのは、自分が地元 で担いたい役割のこと──。

北比良に戻って7年が経とうとしている森さんに、地元への思いと役割についてお話を聞きました。

とにかく早く、家から出たかった。地元が嫌だった高校時代

── 森さんは北比良の出身とのことですが、幼少期で覚えていることはありますか?

僕が小さいころは、今のように夏休みに小学校のプールが開いていなかったので、集落ごとに琵琶湖の水泳場が、観光客とは別で用意されていたんですよ。杭を立てて桟橋を渡して、ちゃんと25メートルのプールになっていて。うちの集落は、その水泳場が家の目の前でした。

だから夏になると、毎日のようにみんながここに泳ぎに来ていましたね。遊んでいるだけの子もいれば、秋の遠泳大会に向けて練習している子もいて。保護者がいつも見守り当番に来ていて、子どもたちは湖からあがったらうちの水道で足を洗って帰るんです。これが、夏休みの日常でした。

── 地元の原風景が、森さんのなかにしっかりと育まれていったんですね。

今になったらそう思いますけど、僕は北比良で過ごした高校卒業まで、ここが嫌で仕方なかったんですよ。瀬田の高校まで通っていたので、向こうにいる間はお店があって楽しいけれど、こっちに帰ってきたら真っ暗やし何もない。コンビニもなかったから、早くここを出たい一心でした。

僕たちのおじいちゃんおばあちゃんの世代って、苦しい時代のなかで自然を切り拓いて生き抜いてきた世代です。たとえば、このあたりの家は山側に窓がないんですけど、それは冬に比良おろしが吹き付けるから。リスクを減らすことが重要で、景色を暮らしのなかに取り入れる感覚があまりなかったんです。

僕もそのなかで育ったせいか、自然にあまり馴染みがありませんでしたし、大学に行くときは「とにかく家を出たい!」と思って。大学から大阪に出て、就職してから北比良に戻ってくるまでの15,6年近くのうち、ほとんどの期間を大阪で過ごしました。

── 現在の森さんは農業をされていますが、北比良に戻ってくるまで農業にはどんなイメージを持っていたのでしょうか。

うちは代々、おじいちゃんも親父も兼業農家で、会社勤めを終えてから田んぼを引き継いでいたんです。でも田んぼに手伝いに行くと、刈り取りのときなんてわらのクズがついて身体中がちくちくするじゃないですか。あれ、このあたりの言葉で「はしかい」っていって、あれも嫌でしたね。だから家を継ごう、田んぼを継ごうなんて考えたことがなかったです。

出身者じゃない人の視点から、地元の魅力を教えてもらった

── 地元に対していいイメージを持っていなかった森さんが、地元の魅力に気づき始めたのはどんなきっかけがありましたか?

大学を出てからさまざまなところで本当に縁に恵まれて、このエリア出身でない人から比良の魅力を聞ける機会がたくさんあったんです。

たとえば最初に勤めた会社では、上司がたまたま登山好きで、毎月のように比良山に登りに来ていたんです。「なんちゅうええところに住んでいるんだ、大切にせなあかんよ」と言われました。

比良山には僕らも遠足で行ったことはあったけれど、積極的に登ろうなんて思わなかったですからね。そうやって外の人に言われて初めて、地元がいいところなのかもしれないな、と少しずつ意識が向くようになりました。

── 良さに気づき始めた地元に戻ることを、明確に意識し始めたきっかけはありましたか?

30歳になったくらいから、親父の農作業も少しずつ手伝い始めました。といっても当時は大阪にいたから、連休があったら帰る程度だったんですけどね。

でもこのあたりで田んぼをやっているのは高齢の方ばかりでしたから、少し手伝うだけでみなさんに喜ばれるんですよ。「あとは頼むぞ」って言われて。このとき初めて、自分が地元に戻ることで役に立てることがあるのかな、と意識するようになりました。

── 戻りたくなかったはずの地元で、自分の役割があるかもしれないと思えてきたんですね。

それで少しずつこっちに帰ってくる準備をしていたときに、たまたま比良で「オーベルジュメソン」をやっている方と知り合って、このエリアについて話すようになりました。

メソンさんに言われたのは、「ここはもったいない」と。このエリアはみんながもっと満足感を得ながら暮らせそうなのに、人のつながりが少ないから満足感が低いんじゃないか。移り住んでくる人は多いけれど、地元の人とのつながりができなくてもったいない、とね。

そんな話を聞いていたら、ここで生まれ育って、ここ以外の世界も見て、今は「ここっていいところやな」と思える僕が、できることがあるんじゃないかと思えてきて。このエリアで代々暮らしてきた人と、新しく移り住んできた人を結びつけて、一緒にこの土地をより良い場所にしていくための役割を引き受けられるんじゃないかな、って考えるようになりました。

それで、7年前に子どもの小学校入学のタイミングに合わせて、家族で北比良に戻ってきたんです。「地元のために頑張りたいな」という意識をちゃんと持つようになったのは、まだまだこの数年の話ですね。

地元に帰ってきて初めて知った、ここにしかない景色

── この家は、戻ってくるタイミングで建てたのでしょうか。

ここは新築ではなくて、もともとおじいちゃんとおばあちゃんが老後に暮らしていた離れを改築したんです。僕は4人兄弟の末っ子で祖父母と過ごした時間が長かったので、この家を増築しても祖父母が暮らしたころの雰囲気は残せるように、大工さんと相談して設計を一から考えました。使えるものは受け継いで、柱もできるだけ残しています。

── 琵琶湖に面した大きな窓は、戻ってくるときに工事されたものなんですか?

そうです。僕ら家族は、家に人が来てくれて遊んだりお酒飲んだりするのが好きだから、お客さんに楽しんでもらえるように設計しました。せっかくのロケーションなので、みんなに楽しんでもらえるように、どんなシーンで使えそうかを考えたんです。

夏はみんな泳ぐだろうから、湖から上がってきたらここで足洗うだろうな、そしたらここでバーベキューしようかな、とか。デッキの広さも、大勢でご飯を食べられるように考えました。できるだけ琵琶湖の眺望を楽しんでもらえるように、窓や網戸もフレームを減らして特注してもらったんです。

── こんなに気持ち良い景色を毎日楽しめたら、大阪にいたころと生活が変わりそうですね。

なによりも、早起きが気持ち良くなりました。昔は朝が苦手で、大阪にいるときは出社するギリギリまで寝ていたんですよ。でも今は、5時半過ぎには起きて朝ごはんをつくり、出勤する妻を駅まで送ったら、子どもを起こして学校に送り出す。ここまでが、僕の毎朝の仕事です。昔の自分からしたら考えられない時間に起きています(笑)。

この家からは、琵琶湖に上る朝日が見られるんです。夜明けを感じるひとときが気持ち良すぎて、ついつい、毎日カメラを向けています。後から見返すと、カメラロールに同じ光景が並んでいるんですけどね(笑)。朝日がこんなに気持ちいいんだなって、地元に戻ってきて初めて知りました。

── お仕事は農業をスタートされたんですよね?

はい、農業に専念しています。まずは僕ひとりでどこまでできるかを試行錯誤しているところです。できるだけ農薬を使わない農業をしたいと思っているのですが、田んぼはみんなの共有財産でもあります。自分の思いだけでやれるものでなくて、周りとの調和が求められる部分もあるんですよね。

だから新しいことをやってみるにしても、周りに理解してもらったり応援してもらったりできるかたちで農業をしていかないといけないな、と思っています。北比良に帰ってきて6年以上経ち、最近は「うちの田んぼもやってくれへんか」と声をかけてもらえるようになりました。少しは信頼してもらえてきたのかな、と嬉しく思っています。

「ここっていいな」と子どもが思える地域を受け継ぐために

── 子育てをする場所としては、どんなことを感じていますか?

集落の子どもたちが減ってきていることを実感しますね。うちの前の琵琶湖で泳ぐ子どもも、昔と比べると減りました。でも、他の浜では観光客が多すぎたり、ジェットスキーをすぐ近くでやっていたりしているので、自然とみんなここに集まってきます。

僕は、この目の前の浜を「比良のみんなの浜」だと思っているので、「好きに泳ぎに来ていいよ」と伝えています。だから僕が仕事から帰ってくると、近所の子たちが泳いでいますよ。その様子を、母家に住んでいるうちの母が気を利かせて見守っています。

── 見守ってくれる大人がいることが、子どもにとって大きな安心感につながるでしょうね。

そうであったらいいなと思って、息子が通っている小学校の保護者が立ち上げた「小松プレーパーク」という冒険遊び場のお手伝いをしています。遊びに関しても何かと制約が多い今、ただ場所があって見守る大人がいて、子どもが好きに使える道具がある遊び場のことです。子どもたちが自分で考えて自由に遊べる場所をつくろうと、保護者のメンバーで月に1回開催しています。

七輪で火起こししたり、木材で工作したり。川から汲んできた水をブルーシートの上に流して、滑り台みたいに遊ぶのなんて、もうずっとやり続けます(笑)。こども食堂も一緒に開催していて、焚き火でカレーや豚汁をつくって、近所の人も一緒にご飯を食べるんですよ。

また、お寺の和尚さんのご協力で開催している「だがしや」というのもあって、お寺で宿題をしたり和尚さんに悩み相談したりする子どももいます。

── 森さん自身が、家の前の琵琶湖で小さいころに経験してきた原風景のように、この地域での思い出が、今の子どもたちに受け継がれていっているんですね。

使命感といったらたいそうですけど、僕が勝手に自分の役割だと思っていることが、「地元の者が、ここで楽しそうに暮らしている姿を見せること」なんです。農業も同じですけど、楽しそうにやっている姿を次の世代に見せていく。そういう大人を見て初めて、「ああ、ここにいられてよかったな」と子どもが思えると思うんです。

今って、この地域の古きよき価値観を次の世代に受け継げるかどうか、ぎりぎりの瀬戸際だと考えています。 ずっと昔から続いてきた歴史や伝統、素晴らしい自然を、次の世代に「いいなあ」って思ってもらえる形で継承で きなければ、今あるものが過去になってしまうんです。

だから、今の僕なりに地域を楽しんでいる姿を見て、次の世代に「ここ、いいところやな」と思ってもらいたい。この役割をできるのは、この地域の良いところもそうでないところも知っている、地元の者やと思っています。

移り住んでこられた方だけでなくて、もともと住んでいる方も僕らがつなぎ目になって、一緒に楽しまないと。幸いなことに、僕の同世代は今でもこの地域に住んでいたり、外に出ていた人も少しずつ帰ってきてくれていたりします。ですから地元の者としてここで何をしていけるのか、今から楽しみなんです。

小松プレーパーク

滋賀県大津市南小松
公式サイト: https://komapule2015.jimdofree.com/
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